四十四年前。私が入学したとき、都立大附属高校の演劇部はできたばかりの「同好会」でした。「部」に昇格しなければ予算がつかず部室、照明、衣装、大道具、小道具もない。 あったのは先輩方の「演劇をやりたい」「同好会から部に昇格させたい」という情熱でした。
カリスマ性のあった初代の先輩方、フレンドリーだったすぐ上の先輩方、多才でビジュアルに秀でた同期たち。
記念祭公演はCホールという都立大学(当時はまだ敷地内にありました)の施設でした。
部員を獲得し実績をあげるため、記念公演だけでなく一学期に一回は視聴覚室公演をやりました。
照明は主に蛍光灯。
前後左右のスイッチを消灯して観客側を消灯し、暗転・場面転換の工夫をしました。
スポット照明には大きな懐中電灯を使いました。
衣装は器用な部員が作ったり普段着に手を加えたり。
小道具は友達や部員の出身中学の演劇部から借りました。
部室がないため視聴覚準備室の片隅に置いた衣装が紛失の憂き目にあったこともありました。
発生練習などは独学でした。
最近はインターネットで簡単に台本探しができるようですが、そんな便利な仕組みのない昭和時代。
出版されている台本を上映時間に合わせてカットして使いました。
劇中音楽は今よりずっと入手が困難でした。
ネット検索はもちろんレンタルショップもまだ少なくて、音楽や映画の確かな知識とレコードを買う経済力が必要でした。
楽器店でキーボードをいじり、楽譜を立ち読みして劇中歌を覚えたのもいい思い出です。
演劇部は運営が難しい部活動です。
演劇を志す人間は数が少ないうえに自意識やこだわりの強い個性派が多い。
にもかかわらず、一つの舞台を創り上げるのは共同作業でチームワークが求められます。
カリスマ性のあった初代の先輩方、フレンドリーだったすぐ上の代の先輩方、多才でビジュアルに富んだ同期たち。私が入部してからの二年間は分裂・存続の危機の連続でした。
二年生の時、記念祭を前に新入部員が入らず退部者が続出し、現役の同好会員はたった二人になってしまいました。
窮状を救ってくれたのは新たな同期。
戻ってくれた人もいて、公演ごとに絆を結び直し、翌年、パワフルで才能あふれる一年生たちを迎えることができました。
三年生の六月の生徒総会で、演劇同好会は「演劇部」に昇格しました。
卒業アルバムには、「祝!部昇格」の文字をバックに三年生と一年生が一緒に写っています。
入部してくれた一年生への、私たち三年生の感謝と希望が込められた一枚です。
初めての部費で購入したのは、視聴覚室公演で使うスタンド照明器具と舞台メイクセットでした。
現在、私の娘は某都立高校の演劇部員。
たくさんの照明器具と衣装に恵まれた演劇部ですが、今の高校演劇ではあまり舞台化粧をしないそうで、メイク道具だけは私たちの方が立派です。
心残りは高校演劇大会に参加するところまではいかなったこと。
娘が当時の舞台のビデオを観て「地区予選突破まちがいなし」と太鼓判をおしてくれました。
それだけの力があたのにと残念でなりません。
三年間で演じた作品は、『十一ぴきのネコ』(井上ひさし)、『こわれがめ』(クライスト)、『ハムレット』(シェイクスピア)など。
シェイクスピアをアレンジたした創作劇や修学旅行の新幹線のなかで雑談から生まれた合作劇、台詞のないパントマイム劇に挑戦したこともありました。
なかでも二人で企画がスタートし、主役のつうを演じさせていただいた『夕鶴』(木下順二)は、与ひょう役Iさんの素晴らしい演技とともに私の心に深く刻まれています。
コロナ禍で娘の演劇部も様々な制約を受けながら部活動を続けています。
高校生が思い切り部活に打ち込める日が来ることを願ってやみません。
されどコロナ禍がなくても波瀾万丈なのが演劇部です。
今が四十年前に比べて表現手段も発信方法もたくさんあります。
表現活動を主とする部活の灯が絶えないよう頑張ってほしいという思いで書きました。
さらにこの場を借りまして、八雲が丘で演劇活動をともにしてくださった先輩方、同期の皆さん、後輩の皆さんに心からの感謝の気持ちを捧げます。