「ああ西山の雲晴れて…」
昭和二十六年春入学したの僕は無事年月を経てこの2月満八十歳になる。
学制改革で都立大附属高校が誕生しての入学生としては2回生である。
通用門から入って左側にグランドが広々とひろがり、本校(大学)校舎に続いて右側引っ込んだところに体育館、突き当たりに可愛らしい赤い屋根の校舎があった。
規模も1学年男子100、女性50と新校舎にふさわしくこぢんまりしていた。
中学時代新聞を編集していた僕は高校でもと考えていたがその希望は入学早々断念させられた。
ここの新聞は平和思想一色で心身ともおくてだった僕にはついて行けるものではなかった。
昼休みの校庭には「ベルリンアピール」「ストックホルムアピール」の署名を勧誘する上級生の声が飛び交じっていた。
2年生の5月、有名な「メーデー事件」があり、全学連の尻馬にのったその年の卒業生と上級生の20名ほどが碑文谷署でひと晩泊められ、翌日凱旋?した光景が忘れられない。
みんな授業を中断して通用門で出迎えたのである。
そんな中、僕はバレーボールに夢中で、といっても練習は一日おきだったから練習がない日は映画館に入り浸りだった。
勉強はそっちのけだ。
戦時中中断されていた欧米の洋画がどっと輸入された上、黒澤明の「羅生門」がヴェニスで金獅子賞をとったのを皮切りに日本映画の黄金時代が到来した。
お隣自由が丘には4つの映画館があったし、大岡山、武蔵小山まで足を伸ばした。
午後の授業をすっぽかしたこともしばしばで、毎日弁当を作ってくれた母親には申し訳ないことだった。
映画狂いは、のちに浪人しても続き、異性に目覚めることで終止符を打った。
バレーボールは斎正子先生に進められて部に入った。旧制のラスト、新制の1回生の先輩方が鍛えて下さり、3年の春の都大会では3位となり水戸で開かれた関東大会に出場することができた。
軽井沢で夏季合宿が懐かしいが、今思うと当時の部活動は全て先輩と生徒による自主運営であり、学校当局が一切関与しなかったのは都立伝統の自主・独立精神の現れだったのだろう。
OBになって女子バレー部の合宿の時も付き添いはわれわれ先輩だけで、学校関係者が一人も同行しなかった。今では考えられないことだ。
バレー部での先輩たちとの交流は練習だけでなく、夕食後はコンパとなりジェスチャーや名差しゲームなど頭の遊びもあり、床を敷いて横になってからも「友情とはなにか」「人生とは?」などの会話が寝るまで続いた。
それは唯一遠征した水戸の宿でもおなじだった。
優れた先輩たちのこうした演出は都立の運動部でも珍しいものであったろう。
これは、戦時中からこれら先輩達の心身の面倒をみてこられた亡き斎正子先生の教えがもとだと思われる。
”自分で考えて行動する”府立高校創立以来の伝統を戦後まで引き継がれた同先生のご尽力には感謝するばかりだ。
高校を選ぶとき、戦前派の父がこの学校の自由の気風を評価したものか、昔の学制にならって都立なら東大をはじめとする旧帝大に進学が容易だと考え違いをしたものか今となっては不明だが、”まっすぐな大人になれた
”という意味でかけがえのない青春時代ではあった。