岩間 四四年三月に卒業式粉砕ということで学園紛争が始まるという経過になると思いますます。喜多先生いかがですか。
喜多 私がそのときに担任でした。細目は覚えていないんですが、学校群辺り(編者注:昭和41年10月、学校群制度が導入され、広尾高校、目黒高校と共に23群になった)が変り目になったと思うんです。
それがはっきり紛争というかたちをとって、この年に出たんじゃないか。
学校群になるかならないか、入るか入らないかというとき、学級増の問題が一緒にあって、三クラスでは維持できないという意見があったのです。
小野 学校群の直前です。
喜多 そうすると、一つ特色がなくなるという意識をぼくらは持ったわけです。三クラスというのは教師も生徒も相互に全員知っているというくらいの規模でした。
それが拡大していくにはそれなりに抵抗感があったんですが、それだとジリ貧で、あの学校自体が成り立たなくなるかもしれないという危惧もあった。
それを捨てる。一方で学校群が来る。
そうすると、内面的な受け取り方としては、あきらかにエリート校としてきていた。それが大衆的な地域の学校になっていく。
それにいろいろなものが重なって、はっきりしてくるのが四〇年前後で、四四年あたりの紛争でそれまでの学校と決別していった面があるんじゃないかと思うのです。
四四年の学校紛争のときも、紛争の経過を見ていると、かなり他の学校と違った。明らかにあの学校の特色が出ています。というのは、管理体制の強化、つまり学校教育というのは独占資本の手先であるという言い方ができていますが、ぼくらと生徒が話していると、そういう言い方は出てこない。
たとえば他の学校では、生徒規則にこうこうある、これを守れみたいないことが端的にいわれるわけですが、あの学校では生徒規則があるのだけれど、それを楯にとって行ったことはあまりない。
わりと説得、話し合いみたいなことでいっている。
教師のほうもあまり規則は知らないと思うのです。
それなりに自分の考えで生徒に対応してきていた。
だから、卒業式のあり方で問題が出てきたわけですが、他の学校では出ないような、ものすごい難題を持ってくるのです。
自主卒業式にしろ、と。卒業式粉砕といっても、ただ、粉砕だけではどうにも……。
粉砕に値するような管理体制があれば「粉砕」でいいんですが、そういうものではないのですから、粉砕とは言うのですが、とうてい通らいないような自主卒業式にしろと言ってくる。
たとえば、祝辞なんか要らない、校長訓示も要らない、卒業証書も要らん、パネルディスカッションをやれ、というわけです。
高校教育というのはどうだという反省をやって、それで自分たちは勝手に出ていくんだ、そういうかたちにしろというわけです。
それで、考えて、これはまともな案じゃないかと思って、真剣になって職員会議に出すわけです。
すると、ぼくも通るまいと思っていたような案が通るわけです。
それで生徒のところに持っていく。向こうも通らないだろう、通らなければ封鎖しようと思っているのに、通る。
ですから、あの学校独特の卒業式が行われるというので、マスコミあたりも取材させてくれと言って、来ていたくらいです。
ところが、闘争をやっているほうは外との連帯があるから、うちの学校だけ卒業式をやったのでは困るというわけで、いままで交渉していたのがポッといなくなってしまった。
それで、直前になって夜中に封鎖してしまった。だから、かたちとしては、あの学校らしい闘争が行われていた。
ところが、全体の学校の流れからすれば、やはりあのへんで地域的な、大衆的な性格を持った高校へと変わったんじゃないかなと思っています。
彼らもあの学校に対して建設的なプログラムを出して、新しい教育体制をつくろうというのではなくて、彼らがよく言っていたのは、「自分たちは感性的に動いている」と。
考えてみれば、それほど理性的に考えていたわけではないですが、エリート校というのはやはり理性的な学校ですね。きちっとしているとか主体性があるというのは、やはり理性的な学校だったからだと言えると思うのです。
それが感性的な、それをぶつけていって、ごく普通の、全人間的な学校にしようということです。
だから、古川校長(編者注:古川原第七代校長。在職期間:1967年4月1日〜1970年11月30日)が修学旅行のとき、生徒を前にして言われた言葉を覚えています。
「都立大附属高校だから、こうやってきました、あるいはこうやってこうと私は言わない。普通の高校、普通の生徒だから、こういう修学旅行をしてきた。そういうふうにあってほしい」。
古川さんは教育学者ですから、そういった変わり目のところで、やはりそういう見方をしておられたんじゃないかなと思います。
それだけに、教師、学校に新しい取り組みが要求されて、工藤、春山さんはだいぶ苦労されたんじゃないんでしょうか。
小野 感性的になったということですが、あの時期、「太陽の季節」が出た時期、高度成長の時期です。
そいて、週刊誌が広がっていく時期ですから、全体的にいままでの理性みたなものでは持っていけないふうになって、一種の崩れが潜在的にあらわれていたということが言えると思います。
彼らのスローガンのなかに「自治と自由の粉砕」というのがあったんだが、これがどういうことなのかよくわからなかった。
いまもよくわからないんですけれど、その「自治と自由」が、いまの話でいえば闘争目標がはっきりしないから、そういうふうになってしまったところもあるんだろうけれど、一種の古典的な民主主義みたいなものではやっていけないということの表明だったのかなという気もするのですが、そこのところはまだわからないです。
どうだったんですか、あれは。
喜多 彼らは、いちばん狡猾的な方法で生徒を管理している学校だ、つまり狡猾な方法として「自由と自治」をとらえていたわけです。
それしか、あの学校に対する闘争の目標の立てようがなかったと思います。
こちらも意識としてはないですけれど、ある程度は該当している面がないではない、という程度ですね。
安食 あのときは自治会をたたき潰すという動きだったでしょう。
喜多 そう。学校の秩序維持に一役買ってるのは自治会だというとらえ方をしているわけです。職員会議の中でいちばんピークだったのは機動隊を導入するかどうか議題になったときです。
岩間 四四年ですか。
喜多 卒業粉砕闘争と同じ年です。
岩間 青山に機動隊が導入された、その後くらいですか。
喜多 そうですね。都立大にも入った。
春山 そのもっと前ですね。
小野 新館封鎖のときに、導入するかどうか。
喜多 「導入しない」という方向をかなりはっきり出していましたね。
小野 それは全員一致してね。
喜多 外からのあれとか、管理的な面から見たら、導入されていたような情況だったですね。
小野 こっちが反対という態度を持っていても、向こうから来ると言っている。それをさせないようにどういうふうにやるか。
喜多 碑文谷署の署長も来て、情況を見ているわけです。パイプを持っているのを見て、「凶器を持っているじゃないか」と言われたのを覚えています。
工藤 ちょうどそのとき、ぼくは指導部だったものですから、担任をしていた喜多先生からいろいろ情報が入ったから、その点、やりやすかったけれど、学校の中で起きたものを外部の力で解決するのは教育の場じゃないから、機動隊を入れないという意見が強かったですね。
生徒が政治的な考えで行くのはかるのですが、話をしていても、とにかく体制に何でもかんでも反対していた。
これならわかる話だなと思って言っても、それで一緒に、それならわかります、ということになると、彼らの紛争は終わりになってしまうものですから、どういう話を持っていってもだめなんです。
卒業式粉砕のときも一つの部屋に立て籠って、屋上に「附闘委」という黒い旗を立てて卒業式をやったら大混乱するというので、急遽、中止しちゃった。そのときテレビ、新聞社は猛烈に怒りました。
「あそこに竹竿があるが、あれはとにかくかたづけてくれ。竹竿があれば、要請がなくてもこちらから入らなければいけない。そういう義務がある」と警察に言われて、生徒に伝えると、そういうのは素直にササッと片づける。しかし他はどんなことをやってもだめ。
やめたら、この一室はすぐに解放し、旗は下げるという約束をするのです。
その前に、「こういうふうになれば部屋はあける」「そうなったんだからあけろ」「はい。あけます」と、そういう話は素直に聞くのです。
「屋上の旗も降ろすはずじゃないか」。その旗は警察がうるさい。
旗を下げないと警察は鎮静させた
意味がないみたいだ、旗は約束が違うじゃないかと言うと、「忘れていた、すぐ下げます」そういうふうに、何か一つ、彼らの思うとおりになると収まり、その次に新しくなると、話し合ってもどうしょうもない。
そのへんのところが、何を最終的な目標にしているか、はっきりとした答弁としてなかったから、そのへんが教師側としてばつらかったですね。
二学区の進路指導会に行きまづと、必ず、「附属は何で警察を入れないのか。青山は警察を入れたから、すぐ収まったじゃないか」と聞かれるので、これはこうだと言うと、「附属の教師は」ということで盛んに言われ、最終的にはあやまりましたが。
附属のやり方に内政干渉的なことを言うやつがあるか、と。それで、「すみません。すみません。いずれうちだってちゃんと収まるんだから」と言い張ったこともありましたけれど。
小野 喜多さんが言ったように、凶器を持っているんじゃないかというのが出た。
ところが、そのとき「附闘委」の連中は新館のなかで棒を見せなかった。チャカチャカ音はしていたけれど。