学校群のこと

安食 話は飛びますが、学校群制度になるとき、うちの二三群に入るについていろいろあって、あそこに入ったのがまずかったんだとかいう話がずっとあとまで続いているんです。 どこでも組めたんだという話があるんですが、そのころの職員会議に列席されていて、どうでしたか。

喜多 議題になったは覚えているのですが、それについての激しい討議があったとは思っていないですね。

工藤 なかったですよ。

小野 あの時期は、いろいろな情況があったと思うのですが、さっきのようなエネルギーが消えていて、激しい討論になっていないのです。 当時は小場瀬校長(編者注:小場瀬卓三第六代校長。在職期間:1966年6月1日から1967年3月31日)のときで、小場瀬さんは学部長兼任で仮に来たわけですから。 ただ、あのときには戸山や青山と組もうという話は全然出てなくて、独立するという話が出ていたでしょう。

喜多 独立するか否か。

小野 学校群を離れて、全部で職業高校みたいなかたちで独立できないか。 そうすると、附属高校として設立するときの都知事と教育委員会との取り決め事項は、学区制に入るということと一緒にくっついているわけですから、それに抵触するので、そこで実現性、現実性がうまく考えらえれなかった。 それで戸山が学校群に反対の態度を表明した。 しかし、反対といっても反対が実現しそうな気配は全くなかった。 結局、どこの群と組むという話は出なくて、学区制のなかで独立して一学校群という案を小場瀬校長が持っていたね。しかし、それも実現しなかった。

 だから、あのときはたしかに危機だったんじゃいですか。生徒も都立大附属を狙いうちにするために学校群をやったんじゃないかとささやいていたしね。 どっちがよかったのか全然わからない。

工藤 あのとき話に出たのは、青山、戸山とうちが入った、いちおうこれでいく、いや、そうじゃない、こうだと、うやむやになって出てきたら、いまのかたちになっていたのです。 ちょうど、そのころ、附属のあり方が討論されていまして、滝本先生(編者注:滝本達吉教諭、在職期間:1948年7月31日から1975年3月31日)、松先生、ぼくで、附属の検討委員会を持ち、東大など附属を全部調べまして、独立できるものだったら独立して、と、そんなときがちょうど学校群のちょっと前だった記憶があります。

小野 そう。そういう意見があった。

工藤 それで、そうとう調べましたよ。それで、独立に踏み切ろうというとき、これが出て、ちょっとうやむやになった。 まあ、あのときに独立を実現させようとしても、恐らくだめだったと思いますけれど。

岩間 教育庁からずれたところで独特の学校をつくっていた、また生徒も独特の気質を持っていた。 それが、決定的には学校群以来だと思うのですが、変りかけてきたなと思われたのは何年ぐらいになりますか。

柴田 私は四四年(編者注:昭和44年)にあそこを飛び出しているわけです。その三年くらい前から何となくこっちの言うことが生徒のほうにまっすぐに入らなくなった。 それで、変だなあと思った。 私も年がいきすぎましたからね。 そのころ白旗先生がおられまして、「教員というのは体力がなくなるから、五〇までしかだめだよ。だから、早くやめろ」ということをさんざん言われていました。 その段階で、実は私の言うことが素直に通らなくなったのです。 それで、これはやめなきゃいけないなというふうに感じたんですから、恐らく四一年そのころだと思います。それはもう学校群になってからでしょう。

 
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