一九四四年七月、サイパン島玉砕が報じられた朝、佐々木順三校長は全学生に「日本は負けるだろうが、諸君はどのような事態になっても学問を忘れてはならない。
どんな時代がきてもそれが支えになる」と訓示した。
髪を七三に分けたリベラリストは戦後、立教大学の総長に転出した。
運動場もテニスコートも畠と化していた頃、我々の中には佐々木校長の自由の心が宿っていた。
自由と自治の伝統は戦後のものばかりではない。
戦後の学生改革で、旧制都立高校は都立大学がとなったが、尋常科は廃校か他校との合併を強いられていた。
我々は、あくまで存続を主張した。
その論拠は「一般の中学は五年制であるが、”都立”は四年制であり、更に学区制にとらわれない特異的な学校であるため、全都から優秀な人材を集め社会の指導者を育成している」といったものであった。
特殊な才能を持つ者も多く、勉強の面でも大人を凌ぐ者は大勢いた。
”都立”に昔の面影が消えた時期は、小学区制に編入された時期と一致する。
都立大学は、近々、多摩ニュータウンに移転する。
附属高校は、終戦の時と同様に廃校か他校との合併など邪魔者扱いにされている。
私は八雲が丘を捨てて都立大学と共に多摩に移るべきだと考える。
旧制の府立(昭和十八年からは都立)の尋常科の良さは、上と続いたところにある。
図書館や先生、研究室などは他に比べ非常に恵まれていた。
大人の中にあって早くませ、才能を伸ばした。
学区制にとらわれず全都から受験できたことも幸いした。
今、附属高校が伝統を生かして飛躍を望むならば、大学のキャンパスに移ることだ。
学区制を除き、大学の研究室に入り浸る生活をさせ、推薦入学制をとれば、大学としても世界に通用する人材の確保と育成が可能となる。