私が都高に入学したのは一九六六年、学校制度になる直前だった。
この時期に、「選ばれた知識人」をめざす旧制以来の「古き伝統」と、誰もが何となく高校生になってしまうという高校大衆化の風潮とが都高でも微妙に交錯しはじめたように思える。
哲学や政治論議に熱中するインテリ派と、授業をサボってパチンコや麻雀にうちこむ大衆派とが「自由と自治」の伝統のもとに共存−−ときには一個人の中で−−していた。
木造の旧校舎群の一角に、ありふれた鉄筋四階建ての新校舎が一棟だけ割り込んでいる光景が、新旧の流れの混淆を象徴していた。
こうした実感は私自身の記念祭体験に結びついている。
当時の記念祭は「反戦平和」をスローガンに掲げ、サルトル劇の上演や政治・社会問題の研究発表など、当今の高校文化祭からは想像もつかない知的水準を誇っていた。
私のクラスでも「差別」をテーマに選び、グループごとに研究発表することになった。
この時、私は数人の友人とともに、あろうことか釣り堀の興行をクラスに提案した。
体育館へ下る階段のわきに庭園跡があり、そこに噴水用の池が残っていた。
釣りに夢中だった私たちは、この池で釣り堀をやろうとしたのだった。
グループ研究と両立させることでクラスはどうにか了解してくれた。
しかし、この企画を記念祭執行はみのがさなかった。
娯楽的興行は記念祭と相容れない、意識が低い、等々と執拗に批判が加えられた。
それでも私たちは強行した。
そして、雨にもたたられ、不評のうちに釣り堀は終わった。
あの時、私たちを支えたものは、都高に漂う選良意識への反感だったと、今は思う。
その反感の表現が釣り堀でしかなかったと考える時、記念祭は私にとって苦い思い出となる。