その頃の私達には、旧制の都立高校に入ったのであって、新制の都立大学附属高校などに入学したのではないという気持ちがあった。
母校の校舎が新しい都立大学に蹂躙されていると思いこんでいたので、大学の一回生が入学してきてからは、何かにつけて衝突し、乱闘騒ぎまでしでかしたが表沙汰にもならずにすんでいた。
半面、文化活動も盛んで、ピアニストのクロイツアーをテニス部が招いたり、巌本真理も来てくれた。芝居も盛んだった。
昭和二十四年の記念祭は、全学連の全国統一文化祭に参加して、「平和と自由のための文化を」というスローガンを掲げることになった。そして、十一月七日に記念祭とは別に都立大学との合同文化祭を行うことにした。
ところが、大学と付属高校当局は、「全学連は政治団体であるから、その運動の一環に加わり、合同文化祭を行うことは絶対に許可しない」と言い出した。
早速、大学と高校合同の対策委員会ができた。私が委員長になって交渉したが、当局の態度は変わらなかった。
一方では、合同文化祭の準備は着々と進み、講演会や新協劇団によるオストロフスキーの「雷雨」を上演することになって、既に切符をばらまいてしまっていた。
当局は、許可しない文化祭を強行する場合責任者の処分は止む得ないという態度をとっていた
しかし、委員会は、ここで一歩でも引けば学生弾圧がくるという判断で、強行突破をしても合同文化祭を実行すると決定した。