当時の授業は一コマ100分で、大学生並みであった。一年生ははじめつらそうにしていたが、逆に又、大学生にでもなったような精神的充実感を味わっているらしく、この制度は長く続いた。
後日譚になるが、六期生の頃、一橋大学西洋史の教授上原専録先生にお願いしてあと三ケ月に迫った「バンドン会議」について講演をして頂いたことがあった。戦後はじめてのアジアアフリカ諸民族による会議である。この会議がアジアアフリカ諸民族にどんな影響を及ぼすかの歴史的予見をうかがったがその後の歴史の展開は先生の予見通りであったから、教師も生徒もいたく感動し「学ぶ」ことの意義の深さを改めて感じたことであった。
そのとき二時間にわたる講演に生徒たちは身じろぎもせず静聴していた。先生は大変感動されて「都大附属の生徒は素晴らしい」と一橋大の大学生たちにもされたのを耳にしたことがある。
尋常科上がりの二、三年生は、何かにつけて早熟であった。数学の時間に「数にはどんな種類があるか」という質問に「実数、虚数、整数、負数。・・・」と26種類を答えた生徒がいたそうである。当時はみんな学ぶことに飢え、本に飢えていたから、百科辞典などあれば見飽きず見ていたためであろうが、それが尋常科二年の時のことだから驚く。
高等科の影響も多分に受けていて、生徒たちはよく神田の古本屋へ弁当もちで出かけて行き、弁当は東大校内辺りで食べては又立ち読みにいった。どの本屋の何段目に何の古本があるかを言い当てっこなどして遊んでいた。
「ニーチェ」だの「ダンテの神曲」だのを尋常科二年位の生徒が舌足らずで語り合う生意気さが又可愛らしさでもあった。そんな生徒が高校生になったのだから、自分たちで講師を呼んで講演会をしたりクロイツアーキや岩本真理の音楽界を開いたりした。大人そこのけであった。
新任教師がくると、例えば社会科などでは教師の得意でないところ(社会主義だの共産主義だのマニフェストだの)をもち出して、むつかしい議論を吹きかけて教師を立ち往生させて快哉を叫んだりしていた。
しかし、教師と生徒との信頼関係は深かった。旧制当時は先生を「桃ちゃん」とか「碌ちゃん」とかいっていたが、新制になって姓にさんづけをしていた。教師も全部生徒を知っていて「アコちゃん」「ペコちゃん」などとよんでいた。