ここで尋常科の措置が問題になった。校長であった私の最大の念願は何とかして高校関係職員全員がそれぞれ満足される職場をもたれることであった。と同時に、旧制高校として「都立」のもつ良さが何らかの形で行かれれるように、ということだった。
尋常科を独立の新制高校として再建することも考えたが、校舎をどこにつくるかで行詰った。とりあえずは「八雲が丘」を大学と分けあい、一部を共同に使う方法をえらぶ他ないという結論になった。それにこれまでに高等科・尋常科とはいいながら一体であったものが全くたもとをわかつような形はとりたくない、という気持ちも強かった。
これらの諸条件を一応満足させる当面の策は尋常科を都立大学附属高校にすることだった。しかし、大学には高校を付置させるには大学に教育学部又は教育学科があり、高校はその実習校の性格を備えるという条件がいることがわかった。
早速文部省に行き大学課長の春山(順之輔)氏と面談したところ、事情をよく了解され種々好意的に考えて下さった。まだ都立大学には教育学科はなかったが、幸に教職課程がおかれていたので、これを拠り所としてようやく付置が認められることになった。
次は大学と附属高校との関係、附属の性格をどうするかである。これらについての事務的な面は当時高校の庶務課長を兼務されていた安岡教授の並々ならぬ御骨折りのおかげで処理できたが、偶々都側にも関連の要職に都立高校出身の玉井正元市がいられて親身になって御心配下さったことを今も有難く思っている。
私が特に心をくだいたのは、先にのべた「都立」の良さをこの附属高校に残したいということであった。校章、校歌、校旗はそのまま引きつがれることになったが、校風の中に「自由」と「自治」の精神を正しくついでほしかった。
それにはあくまでも真実を究める謙虚さと堅実性、責任と信頼によって培われた友情が基盤になくてはならない、というのが私の信念だった。これがあってことはじめて旧制高校が自由と自治を標榜しつづけることができたのではなかろうか。この二十五年の間に種々の変遷があったことと思うが、この精神は今もなお堅持されているのだろうか。