平成22年、母校の閉校記念として作成された「校歌・學生歌・寮歌・記念祭歌集」DVDに吉松安弘(2期)さんが同窓会報に寄せられた文章を再掲します。
且つて日本の旧制高校のように、自分たちの母校の歌が次々と創られ、生徒が共に歌う曲をふんだんに持っている学校、学校群は、世界でも他に例がありません。
旧制高校は多くが全寮制だったので、これらの校歌・学生歌・記念祭歌・応援歌などをひっくるめて「寮歌」と呼びならわされており、四十校近くあった旧制高校の寮歌すべてを集めると二千三百曲に及ぶとか。近代日本の各時代の知性を自負する若者たちの切実な思いが込められているこれらの寮歌の数々も、今やそのほとんどが忘れされようとしている現状は、いかにも残念です。
都立大附属高校が校歌を引き継いだ府立高校〜昭和十八年に改名した都立高校は、わずか二十年の歴史ではありましたが、その生徒も時に応じて希望や苦悩を歌に託し、その志をみんなで歌い合ってきたのでしたし、これが五十曲余の府立高校寮歌として遺されています。
それはちょうど昭和の激動期、戦前・戦中・戦後の非情かつ異常な時代をまたいだものですから、数々の歌は府立高校生の時代との格闘を、そして府立高校の伝統や校風を世に示しており、日本社会の転変についての重要な歴史的証言になっています。
自分たちの歌を創り、母校に遺してゆくこの伝統は創立当初の都立大学附属高校にも受け継がれ、毎年、記念祭のたびに新しい歌が創られ、歌い継べき務められていたのでしたが、学校の性格がかわり、時代も、生徒も変わり、やがてこの倣いも失われていったのでした。
府立高校が創立されて三年、八雲が丘の新校舎に移転した昭和七(1932)年になると、われわれも歌を持とう、まずは校歌を創ろうとの気運が高まり、全校から募集したのでした。しかし多くの賛同を得る詞が無く、入選作が現れるまでにはまた三年を要しました。作詞は高等科一年の理科生、作曲はドイツ語教授、当時としては珍しい三拍子です。
ところがこの曲、府立高校創立者ともいうべき校長の気に入らず一大事。彼は校歌に合わせて全校生徒の行進する晴れやかな光景を心に描いていたのです。
そこで校長は急遽、当時名声が高かった陸軍戸山学校軍楽隊に作曲を依頼、すぐに「マーチ・嗚呼西山の」が出来てきたのですが、今度はそれが学生たちに不評、「幼稚園的寄木細工だ」「撲殺してしまえ」などと物騒な声さえ聞こえてくる。
結局、二曲をともに校歌とし、あとは自然淘汰に任せようと衆議一致、断然残ったのがこの三拍子なのでした。母校を讃える詞といい曲想といいまことに穏当、校歌ににふさわしい歌と云えるでしょう。