都立大学としては理学部と人文学部が同居の上に附属高校まではこの旧校舎を抱えて居るわけにはゆかないので、二十五年春から三学年の体形が整うを機会に新校舎を建てて分離することが急務となった。
新高の生徒達は住み慣れた自分達の学校を出て行こうとはしないし、ましてや学校の境内以外に校舎を建ててくれても絶対に出て行くぬと駄々をこねだした。
敗戦後の生徒達は、上からの命令で素直には抑圧されなくなっているし、地元の住民達の声も父兄会を通じて出て来て居り、運動場や体育館、図書館など附属設備の問題もからんで、愈々二万坪の西の一隅に木造で新校舎を建てることを決定した。
初代の附属高校長として大学の方から小笠原録雄氏を迎え、私は父兄会関係の仕事や、定款の作成に当たって居た。その上、四月から六三制による新高一年は初めて学区制から選抜されて入ってくる生徒だから大事をとって自分でA組の担任を引受て居るので多忙であった。
ところが教務と事務の方で、都からの指令により建設予算の範囲内で新校舎の仮設計図を作成して提出せんとする直前に、幸いなことに偶然私の眼についた。
その時の予算の額は覚えていないが、図面を一覧してその規模の貧弱さに唖然としてしまったので、提出を待ってもらって私の意見と希望を校長に聞いてもらった。
設計図は二階建の一棟に普通教室が造られて北側に廊下と階段を設け南側に一列に教室を配しただけのもの、特別教室等の余地は全く見当たらなかった。
その当時の旧高の校舎では図画室も工作室も特別机が入って教室の面積も普通教室の二倍はあるし、各準備室には教材や標本、工具が戸棚に整備されて居るのでこれを持込む教室を造ってもらう必要があることを説明して校長の了解を得、結局二人で都庁へ出かけて行くことにした。
都庁では熱心な説得の結果最後に建築の設計に当る技師に直接面談、旧高現在の教室と備品の実情を見てもらうことに話をきめて帰った。
この小笠原校長の熱心な交渉のお蔭で予算も増額され附属高校のあの三棟の木造校舎が実現して、十一月に目出度く落成祝賀を迎えることが出来た。
今も私のベルトの一本には、私のデザインで作って学校の全員に贈ったその時の記念バックルが着いている。表に旧高の桜の紋、裏には昭和二十五年十一月、都大附属高等学校落成記念。